城郭そのものの性格の変化
時に天正五(1577)年です。
このとき安土山上にはわが国初の七重大天守が建設され、山下の楽市に集まる商人等に天下布武の偉容を示すことになるが、この天守は後に述べるように総塗籠式ではありませんでした。
いま見たように、総塗籠式のものが出現するのは、これより二十数年も遅れた関ケ原合戦の後です。
近世城郭の性格上、白墓塗籠こそ機能上・意匠上の条件を兼備した理想型であるにもかかわらず、このような時間的なギャップを生じた原因は、果たしてどこにあったのでしょうか。
その一は、等しく近世城郭といいながら、この間における城郭そのものの性格の変化であり、その二は建築、特に左官技術上の問題です。
そのうち、外壁リフォームの技術的な問題点は策五節以下で詳説することとし、次節ではまず初期の近世城郭の性格について考えてみよう。
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